更新日 : 2024/03/19 

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検索条件   ( 同盟通信写真ニュース) and キーワード( 【1941】)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 1月1日(1636号)1941年【1941】御民われ、生けるしるしあり 瑞雲みなぎる大内山(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 1月4日(1638号)1941年【1941】戦史に刻む不朽の偉勲! 帝国無敵海軍に感謝せよ!!|―海軍省昭和十六年十二月一日検閲済乙第六七七号(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 1月7日(1302号)1941年【1941】恩賜の清酒戴いて|蒙古平原の皇軍勇士たち|漠々たる大平原に厳寒零下二十余度の寒風に抗して厳たる警備を続けている我が皇軍勇士は恩賜の清酒をいただいて、遥か故国の正月を偲び、皇国の多幸を祈って、心ばかりの祝宴を開いた。写真は蒙古人と共に、お正月を祝ふ皇軍勇士たち。(公開Ⅰ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 1月28日(1320号)1941年【1941】独潜水艦の魚雷に 英駆逐艦の惨たる最期|世界に誇る大英海軍も、独海軍の果敢極る活躍に手も足も出ない状態であるが、この驚く可き写真も最近独海軍の誇るUボートの魚雷に依り、撃沈された英国駆逐艦ケリー号の凄惨極りなき最期の一瞬をキヤツチしたものである。写真はケリー号の惨たる最期。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 2月1日(1324号)1941年【1941】酷寒を冒して怒涛の進撃 皇軍精鋭河南大平原を席捲|京漢線の要衝隊平に感激の日章旗を飜した皇軍は零下五度の酷寒を物ともせず、夜襲また夜襲の奇襲戦術を以て、宛ら怒濤にも似た快速ぶりを以て河南の大平原を席捲しつゝある。写真は河南大平原を征く皇軍部隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 2月6日(1328号)1941年【1941】暗夜に薄氷を破って 渦河を渡る皇軍部隊|厳寒零下拾余度、痛い程の寒気が骨を刺す大陸に我等の皇軍は一路驀進を続け冬季攻勢を呼号する敵大軍を捕捉懴滅しつゝあるが、去る廿八日渦陽城を占領した皇軍は更に敗敵を追撃、河南の野に壮烈なる懴滅戦を展開してゐる。写真は暗夜に渦河を渡る皇軍。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 2月6日(1328号)1941年【1941】モンペ姿も勇しく|社交女子青年団の国民体操|とかく世間から誤解され易いカフェー・喫茶店の従業婦たちも敢然起って時局に副ふべきであるとの目的で結成された名古屋の社交女子青年団三百余は去る一日の興亜奉公日には降る雪の中に新楽運動場に集合、新楽署長さんの訓示を受けた後指導員の号令一下、掛け声勇しく国民体操を行った。写真は集合した社交女子青年団員。(公開Ⅰ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 2月13日(1333号)1941年【1941】支那方面軍状視察中の 大角大将等黄陽山に殉職|一月十六日東京を出発、支那作戦地区軍状視察中の大角岑生大将は去る五日海軍徴傭機にて海南島に向ふ途中同乗の須賀中将等五将校と共に黄揚山々頂附近で全員痛しくも殉職を遂げてゐることを発見した。写真は廣東に於ける大角大将。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 2月23日(1342号)1941年【1941】朝靄を衝いて 軍旗を先頭に猛進撃|潰走に潰走を続ける敗敵を捕捉懺滅すべく、皇軍は勇躍、日に夜についで猛進撃を敢行。寒気凛たる朝靄を衝いて、武勲燦たる軍旗を先頭に、皇軍は各所に壮烈なる懺滅行を続けてゐる。写真は朝靄を衝いて進む皇軍部隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 2月25日(1343号)1941年【1941】我が海鷲の功果橋爆破に 立往生する敵の軍需トラックの群|猛爆に猛爆を続ける我が海鷲のため、完全に滇緬公路の功果橋は新旧ともに完全にふつとんだが、これがため同公路の輸送は完全に遮断され、敵トラック群は立往生してゐる。写真は立往生する敵トラック群。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 2月26日(1344号)1941年【1941】エピロスの山々を眼下に 飛翔する伊太利爆撃機|枢軸国のバルカン工作と平行、イタリア、ギシリヤ愈々その戦火高まらんとする折柄、イタリア空軍また自信満々、春季攻勢に行動を開始せんとしてゐる。写真はエピロスの山岳を快翔する伊爆撃機隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 2月28日(1346号)1941年【1941】焼け落ちたギルド・ホールに 佗しく立つウエリントン公の銅像|春と共に独逸の全面的大攻勢は海に空に、いよ〱その火蓋が切られたが、独空軍の猛翼下にあえぐ倫敦は全くその相貌を一変、宛ら廃墟の街と化し、ギルド・ホールも殆ど潰滅され、惨憺たる中にひとり佗しげに立つウエリントン公の銅像も惨しい限りである。写真はギルド・ホール内のウエリントン公銅像。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月1日(1347号)1941年【1941】敵弾雨飛の興化城門上にて 悠々通信に活躍する皇軍勇士|激戦につぐ激戦を続けた興化城も皇軍部隊の決死の突撃に依つて遂に陥落したが、城門高く日の丸の飜るや、我が通信隊は、敵弾飛ぶ興化城門上にて悠々通信を開始、完全に重要任務を遂行した。写真は敵弾の中、悠々通信する皇軍勇士。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月2日(1348号)1941年【1941】女房もろともに 支那軍将校喜んで捕虜となる|敗戦に敗戦をつゞける支那軍は抗戦の戦意いよ〱喪失し、投降するもの続出の有様であるが、あきれたことには、女房もろとも喜んで捕虜となる将校があり、我方も一寸、あきれたり、あてられたり、微苦笑を洩らしてゐる。写真は女房もろとも投降の第百十七師の将校三夫妻。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月9日(1354号)1941年【1941】事務員に写真入りバッヂを “第五列”に恐怖する米陸軍省|全世界に戦火飛ぶか否か、その焦点に立つ米国は、今や文字通りの狂奔ぶりを示してゐるが、暗躍するスパイに備へて米陸軍省はこの程出入する事務員に写真入りバッヂを胸間に附けさせる程の厳戒である。写真は写真入りのバッヂを附けて陸軍省に入る事務員たち。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月9日(1354号)1941年【1941】怪ジャンクを追ふ 我が支那海封鎖艦隊|黙々と寒風吹きすさぶ支那海上に厳戒を続けてゐる我が支那海封鎖艦隊は一艘のジヤンクの影さへ見逃さじと昼も夜も厳重な哨海を続ける我勇士の労苦こそ全く地味ながら涙ぐましいものがある。写真は怪ジヤンクを追じ我が封鎖艦隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月11日(1355号)1941年【1941】雷州半島目指して 猛驀進する我が敵前上陸部隊|援蒋物資輸送の路を断乎遮断すべく、突如行動を起した我が陸軍部隊は緊密なる海軍の協力の下に雷州半島目指して猛驀進を開始、南風に狂ふ荒浪も何のその、勇士の意気は天を衝くの慨を示して忽ち無血の敵前上陸を敢行したのであつた。写真は敵前丈六決行の皇軍部隊。―陸軍貸下―(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月11日(1355号)1941年【1941】英本土を震憾せしめる 独逸の誇る巨砲の威力|春が来ると曽つては喜びに躍つた英国民が、今日は独空軍の活躍に来る春を戦慄と恐怖で迎へてゐるが、更に加ふる独砲兵隊の長射程列車砲はドーヴァー海峡を隔てゝ英本土に巨口を向け、その機を待つてゐる。英本土の潰滅はいよ〱近い。写真は咆哮する独逸の列車砲。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月12日(1356号)1941年【1941】春陽麗かな靖国の社頭に 英霊と対面の勇士未亡人|教壇へ新しい希望をもつて首途する勇士の未亡人丗三名は、春陽麗かに晴れ渡つた陸軍記念日の佳き日、岐阜、兵庫両県より上京今は“神なる夫”と靖国の社頭に対面、厳かな新生への誓をたてゝ退下した。写真は感激して退下する勇士未亡人たち。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月12日(1356号)1941年【1941】聖戦下四度迎へた 意義深き陸軍記念日|十日は第丗六回陸軍記念日、憶ひ起す奉天入城の感激も新たに聖戦下四度迎へる一入の感激の裡に帝都を初め各地方では一斉に無敵陸軍を称へる催しが行はれ、粛々とそして凛然たる一日を送つた。写真は靖国神社より進発する戸山学校軍楽隊(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月13日(1357号)1941年【1941】西尾大将の出迎へを受けて 畑総司令官南京到着|西尾大将の後任として、第二代総司令官の重任を帯びた畑俊六大将は、三日午後、西尾大将を初め、各将星の出迎へを受けつゝ、はち切れん許りの意気を眉宇に、城内飛行場に安着、南京に第一歩を印した。写真は西尾大将の出迎へを受けて城内飛行場に到着の畑大将。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月13日(1357号)1941年【1941】輝く日本外交の勝利 泰・仏印調停会議円満妥結|大東亜共栄圏の確立前進に輝く一頁を記録する泰仏印国境紛争調停会議は迂余曲折を経てつひに円満妥結、十一日午後四時より首相官邸に於て調停条項にそれ〲署名を了した。写真は調停条項案文の三国代表署名、向つて右泰国代表、左、仏印代表、中央松岡外相。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月15日(1359号)1941年【1941】神戸丸船中にて 西尾大将送別の乾杯|赫々たる武勲を輝した支那派遣軍総司令官より軍事参議官に栄転、晴れの凱旋をする西尾壽造大将は去る十一日将星多数の見送りを受けつゝ神戸丸に乗船、一路故国へ向けて出発した。写真は神戸丸船中にて西尾大将の送別の乾杯。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月15日(1359号)1941年【1941】世界新秩序への熱望秘めて 松岡外相、硝煙の欧洲へ出発|泰・仏印紛争調停の円満妥結を見た翌十二日、ホット一息つく間もなく、松岡外相は随員一同を従へ午後十時廿分東京駅発にて盟邦独逸、伊太利訪問の壮途へ就いた。駅頭を埋める官民多数の見送りが叫ぶヒトラー総統へムソリーニ首相へ宜敷くの伝言に外相はニコ〱し乍ら鹿島立つた。写真は出発する松岡外相。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月16日(1360号)1941年【1941】英本土攻略の機愈々切迫!! 緊張する独逸重砲隊|春に戦慄する英本土攻略の機は、愈々刻一刻と近づきつゝあり、猛翼を誇る独逸空軍、精鋭を謳ふ独逸機械化兵団の出動準備は全く成り、更にドーバーを隔てゝ凝視する独逸重砲隊の緊張の度はその頂点に達し、総攻撃の機遅しと待つてゐる。写真は緊張する独逸重砲隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月16日(1360号)1941年【1941】渡欧の重大使命を奉告 松岡外相伊勢神宮参拝|正義に基く世界再建に三箇国同盟の歴史的威力は欧洲に東亜に着々進みつゝある今日平和を呼ぶ枢軸強化への使命を帯びて盟邦独伊訪問に鹿島立つ松岡外相は日本晴れの陽光に照り輝く伊勢神宮に参拝した。写真は神宮参拝の松岡外相(内宮にて)(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月18日(1361号)1941年【1941】簡易宿泊所と化した 倫敦の地下鉄停留所|旋風の如く倫敦上空を荒れ廻る独逸空軍に追はれて、倫敦市民は地下へ地下へともぐつて行く、防空壕も地下室も満員とあつて、今は毛布一枚抱いて地下鉄の停留場へ避難する老若男女、折り重つて宛らルンペンの簡易宿泊所風景を呈してゐる。写真はこの頃の倫敦の地下鉄停留所。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月18日(1361号)1941年【1941】それッ!!峠はもう一息だ!! 山西戦線に活躍する片山部隊|潰走する敗敵殱滅の陣を布き、険阻極りなき山西山岳地帯に敵を追ふ皇軍勇士の労苦は筆舌に尽し難き苦難の数々であるが、勇士も馬も渾然一体となり、あの山を、またあの山をと汗と血の進撃を続けてゆく。写真は峠を越へて猛進する皇軍片山部隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月23日(1365号)1941年【1941】独空軍数百機倫敦夜襲 春の総攻撃、いよ〱開始!!|冬季にしばし満を持してゐた独逸空軍は十九日夜、突如!!数百機より成る大編隊を以て猛烈極る大夜襲戦を敢行。照明弾の下、その全貌を露出したロンドン地区に宛ら雨を降らす如く爆弾を投下し、目標物全部を灰燼に帰せしめた。写真は英本土を襲撃する独ハインケル機群。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月23日(1365号)1941年【1941】逃げ遅れた支那少年兵 感謝し乍ら皇軍の労役に従事|疾風の如く遂行された陵川作戦の、余りにも神速なる皇軍の進撃に逃げ遅れた敵第廿七師の少年兵は捕虜となつてみて、初めて皇軍の真価がわかり、今は感謝し乍ら、労役に骨身惜しまず働いてゐる。写真は労役に働く敵の少年捕虜兵。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月25日(1366号)1941年【1941】抗日戦線から和平陣営へ!! 新政府更生部隊の猛訓練|李長江軍を始め、抗日各戦線から中央新政府の和平陣営に馳せ参ずる更生部隊が日を追ふて増加してゆき最近新政府の軍隊は頓に拡大強化され、皇軍の熱心な指導訓練を受け、写真の如く日夜演習の精進してゐる。写真は猛訓練を受ける更生部隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月25日(1366号)1941年【1941】記念に嬉しい報国一致 実践高女の債券奉公|蛍雪の功報ひられ懐しの学園より実生活の第一歩へとスタートする晴れの卒業式、渋谷常盤松の実践女学校及び第二実践女学校の卒業証書授与式は春季皇霊祭の佳き日行はれたが、式後謝恩会に入るに先立ち卒業生四百五十四名に卒業記念品として同校が昨年秋修学旅行の代りとして購入した支那事変貯蓄債券(十五円券)各二通宛分配したが、時局下、女性奉公精神の培養と債券報国への実践として多大の感銘を与へた。写真は債券の分配を受ける卒業生たち。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月26日(1367号)1941年【1941】還都から早くも一年 新しい息吹に甦る新首都南京|中国々民待望の中に行はれた還都典礼の日から早くも一年、新生首都として誕生した南京は新しい息吹きの中に逞しくも華々しい甦生の歩みを続けてゐる。街にも人の顔にも空にも平和な明るい日が甦つて来た。写真は火の出るやうな忙しさを続ける電話交換手さん。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月28日(1369号)1941年【1941】翼賛議会を了へて 近衛内閣閣僚の記念撮影|戦時下第六回目の第七十六通常議会は廿五日を以て終了したので廿六日貴族院に於て閉院式が挙行された。この日天皇陛下には親臨あらせられず近衛首相勅命に依り諸員最敬礼裡に優渥なる勅語を捧読し滞りなく式を終了した。写真は議会を終へて閣僚の記念撮影。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月28日(1369号)1941年【1941】我が無敵陸鷲部隊 宣豊の敗敵に爆弾の雨|小賢しき敵の春季攻勢と称する蠢動は、皇軍の手に依つて片端しから粉砕されてゐるが、我が無敵陸鷲遠藤部隊は、地上部隊と相呼応して目覚しき奮戦を続け、爆弾の雨を降らせ敵を潰滅せしめつゝある。写真は宣豊空襲に向ふ陸鷲遠藤部隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月29日(1370号)1941年【1941】李花咲く戦野に 敵を追ふて進撃する勇士たち|戦場にも春が来た。春を告げる李花が枝もたわゝに咲き競ふ太湖西南地区を、今日も勇士たちは蠢動する敵を追ふ。「戦友が眠る靖国神社の桜も今頃は」強行軍を続ける勇士の脳裏に遠く故国の春を浮べる。写真は李花咲く戦野を猛進する勇士たち。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月29日(1370号)1941年【1941】英国の兵器で 英本土を覗ふ独逸軍|曽つての日、英国大陸派遣軍が惨めなダンケルクより逃れんとして仏蘭西に残した武器の数々は独逸軍の手に鹵獲され、今度は完全に独逸の為に英本土を覗ふ武器となつたが、自国製の武器で自国を覗はれる英国の皮肉さは痛烈極るものと云へやう。写真は英国製巨砲を操作する独軍。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月2z日(1368号)1941年【1941】英本土を粉砕すべく 待機する独空軍の巨弾の山|春は独空軍のエンヂンの響と共に、英首都ロンドンへ訪れる。無気味に轟く英高射砲隊の咆哮の中に悠々独鷲は縦横無尽に荒れ狂ひ、目指す目標を片端しから粉砕する。基地には一千百ポンドの巨弾の山がドーバーを睥んで乾坤一擲の機をねらつてゐる。写真はドーバー海峡をにらんで待機する独空軍の巨弾の山。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月2z日(1368号)1941年【1941】社頭対面の日を待つ 靖国の遺児部隊、続々入京|今は神と仰がれる懐しの父に対面出来る喜びに燃えて靖国の児たちは未だ見ぬ靖国の社頭を胸に画きつゝ続々と上京してゐるが、廿五日朝遺児部隊第一陣として台湾と沖縄の部隊が東京駅に到着した。写真は入京直ちに宮城前に向ふ沖縄部隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月30日(1371号)1941年【1941】保定運動場建設へ!! 日華官民の勤労奉仕|“先づ健康”と平和な日を取り戻した保定では日華官民協力一致して、運動場の建設に余念がない。勤労奉仕に汗する姑娘たちも一生懸命、僕たちの、妾たちの、運動場を心に画きつゝ新しい労働を続けてゐる。写真は映画に撮影される姑娘奉仕隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 3月30日(1371号)1941年【1941】“僕はこんなに元気です” 靖国の社頭に感極まる四千の遺児|北から南から遥々上京した興亜の遺児代表三千七百四十八名がけふぞ九段の御社に靖国の父と対面叶ふ日、幼き胸に包み切れぬ喜びと感激とに燃えた遺児部隊は、“僕はこんなに元気です”と心々に神なる父に呼びかけつゝ、こゝに再会の誓を果したのであつた。写真は靖国の社頭に進む遺児部隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 4月1日(1372号)1941年【1941】学習院御制服も凛々しく 皇太子殿下三笠艦御見学|皇太子殿下には三笠艦御見学のため廿八日、学習院御制服も凛々しく葉山御用邸を御出門御微行にて横須賀に行啓あらせられた。殿下には三笠艦職員の奉迎を受けさせられ、同艦御着、池田大佐の御案内で海兵団の短艇競漕其他を御熱心に御覧遊ばされ午後御機嫌麗しく還啓あらせられた。御写真は三笠艦御見学の御英姿。―宮内省謹写(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 4月3日(1374号)1941年【1941】南京還都以来早くも一年 感慨深く閲兵する汪精衞氏|血と涙とを乗り越えて新政府を樹立し、南京還都の日から早くも一年が過ぎた。硝煙の南京から明朗の南京へ、踏み来つた一ヶ年の時に汪氏の感慨は無量なるものがあろう。湧き返る祝賀の声の中に閲兵する汪氏の横顔はただ感激にもえてゐた。写真は閲兵する汪氏。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 4月5日(1375号)1941年【1941】還都一周年式典を迎へて 歓喜湧き上がる大北京|南京に還都したあの感激の日から早くも一年、新生首都南京の記念祝賀式典に呼応して、明朗北京でも大祝賀の式典が挙行、大和殿の広場も狭しと集つた民衆の慶祝を乗せた万歳三唱は南京にとゞけと許り轟きわたつた。のであつた。写真は餘北京市長の発声で万歳三唱。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 4月5日(1375号)1941年【1941】戦車の前にたゝづんで 敗戦の三将、何を語る?|独逸軍の電撃作戦の下、あえなく一蹴されたポーランド、フランスの両将シコルスキー波司令官、世界の注視を浴びつゝあるド・ゴール仏司令官は去る日チャーチル英首相と共に英戦車隊の演習を視察したが、この三人、果して何を語つたのであつたろうか?写真は左よりシコルスキー、チャーチル、ド・ゴール。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 4月6日(1376号)1941年【1941】皇后陛下海軍病院に行啓 親しく勇士を御慰問あらせらる|皇后陛下には畏くも二日、横須賀海軍病院に行啓あらせられ、病院収容の戦傷病将兵に対し有難き御言葉を賜はり、かつ御下賜品あらせられ、将兵一同はこの御仁慈にたゞ〱感泣したのであつた。御写真は勇士御慰問の皇后陛下。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 4月7日(1377号)1941年【1941】銀翼に無敵の誇りを輝かせ 厳然たる仏印の海軍航空隊|紺碧の大空に無敵空軍の誇りを両翼に輝かせつゝ仏印の護りに就く我が海軍航空隊は厳然たる威容を海空軍基地に示してゐるが、波騒ぐ太平洋を凝視しつゝ東亜安定圏の最前線にある我が海の荒鷲の姿こそ頼母しき限りである。写真は仏印海軍基地の我が海の荒鷲―海軍省貸下―(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 4月8日(1377号)1941年【1941】燻るバルカンに火の手あがるか? 独軍の精鋭数十万集結完了|世界戦争評論家の唖然たる裡に独軍精鋭五十万は僅かに三日にしてブルガリア進駐を了し、燻るバルカンは一先づ鎮火したと思ふ間もなく独ユの国交は断絶状態に陥入り、燻るバルカンは再び暗憺たる風雲乱れとぶの状態となつた。写真はギリシヤ進撃を待つ独逸山岳部隊。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 4月8日(1377号)1941年【1941】国務大臣兼企画院総裁に 鈴木貞一中将、新任さる|近衛内閣は小倉無任所大臣の入閣に次いで第四次補強策を断行、商相に豊田海軍大将、国務大臣兼企画院総裁に鈴木陸軍中将を入閣電撃的な軍、政、財の完全なる協力体制を完成した。写真は靖国神社に新任奉告を行ふ鈴木貞一中将。(公開Ⅱ期)
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同盟通信写真ニュース(1941年) 4月9日(1378号)1941年【1941】聖上親臨の下、興亜馬事大会 桜吹雪に豪快極りなき武者出陣|銃前銃後の国防線に黙々と闘ふ無言の勇士、その不滅の勲を称へ、馬事国防の国民的認識を昂揚する農林、陸軍両省主催の興亜馬事大会は“愛馬の日”の七日、畏くも聖上親臨の下に春風爽やかな代々木練兵場で挙行された。写真は見事な野馬追騎乗。(公開Ⅱ期)